創業明治4年
当時の埼玉県は、麦など穀物の栽培に適しており、良質な水にも恵まれていました。
更に、味噌の大消費地である東京に近いことから、麦味噌醸造が川口の地場産業として発展しました。
4代目が材木商、肥料販売などを手がけ、成功しましたが、大正12年 味噌の製造一本に絞りました。
当時の大卒初任給70円、米1俵(約60Kg)8円の時代、最高級の木材と手焼きレンガを使用した、総工費18万円を投じ(旧)田中邸を建築しました。
この事からも、味噌の需要が高かった事が伺えます。
大正12年に発生した関東大震災の被害も無く、現在は一般開放しています。
麦味噌に加え米味噌の醸造開始し、オリジナルブランドの製造、販売を始めました。
麦味噌「上田一・じょうたいち」
米味噌「上田・じょうた」
6代目田中德兵衞は、大学卒業直前に東京都杉並区高円寺駅前に、株式会社紫屋を設立します。
当時、味噌は終戦後の物資統制下の統制品に含まれていた事から、思うように販売する事ができませんでした。
そこで、県内から干し大根を仕入れ、自家製の味噌で味噌漬を作り販売する事を思いつきます。
味噌漬けに味噌を多めに付ける事でお客様にとても喜ばれたそうです。
明治4年からの味噌醸造を背景に、全国をめぐり 味噌産地のメーカーと折衝し、特約を獲得しました。
全国の有名味噌の卸売を、社長自ら黄色いダットサントラックを運転し、埼玉県から千葉県、茨城県をまわり 次々に取り扱い小売店を増やしてゆきました。
埼玉県川口市のベッドタウン化、多様化する時代のニーズに対応するため、90年に渡り続けてきた味噌醸造にピリオドを打ち、味噌卸業に専念する事にしました。
6代目田中德兵衞は、全国味噌工業協同組合連合会会長、埼玉味噌卸売協議会会長、味噌流通研究会会長などを歴任。
当時、埼玉県には70数軒、川口市内に8軒の味噌メーカーがありました。残念ながら現在は1軒も残っていません。
高島屋百貨店に味噌と砂糖の売り場を開店する。これを切欠に各地の百貨店やスーパーへ販路を広げてゆきました。
現在に至る